自分はどう生きるべきか|「あるべき自分」に縛られていた私

自分はどう生きるべきかという問い

私は私です。
しかし、その私をどう生きるのか。

ある人は、あるがままに自分を生き、
ある人は「どうあるべきか」に苦しんでいます。

そして多くの人が、
その苦しさにすら気づかないまま
「自分」というものを背負って生きているのではないでしょうか。


子どもは本当に「真っ白」なのか

かつて私は、
生まれてくる子どもは真っ白な存在だと思っていました。

まるで白いキャンバスのように、
そこへ色を与えていくのが親の役目なのだと。

だからこそ、
親の責任は大きいと考えていました。

しかし、その考えは本当に正しかったのでしょうか。

私たちのもとに生まれた二人の子どもは、
胎児の頃からすでに違っていました。

一人は静かに過ごし、
もう一人はよく動き回る。

生まれてからも、
一人はおとなしく、
もう一人ははっきりと主張する。

その姿を見たとき、
私は思いました。

これは後から作られるものではなく、
すでに備わっている個性なのではないかと。


私が受け取ってきた「当たり前」

振り返れば、
私自身もまた、親から多くの「当たり前」を受け取ってきました。

接客業の家庭に生まれ、
挨拶は当然、失礼のない振る舞いを求められる環境。

「人がどう思うかを考えなさい」
そう言われて育ちました。

また、学習についても厳しく、
毎日の勉強を求められ続けました。

本当は嫌で逃げ出したかった。
それでも私は、それに従い続けました。


無意識に繰り返していた刷り込み

そして私は、
自分が受け取ってきた「当たり前」を、
そのまま子どもたちに渡していました。

挨拶はできて当たり前。
それを疑うことはありませんでした。

勉強を強いることはしなかったものの、
代わりにスポーツを強く求めました。

練習すれば強くなる。勝てる。
そう信じて疑いませんでした。

しかし子どもたちにとっては、
それもまた「強いられるもの」だったはずです。

私は気づかないうちに、
「どうあるべきか」を刷り込み続けていました。


父親としての間違いに気づいたとき

幸いにも子どもたちは、
私が敷いたレールから離れ、
自分の道を見つけていきました。

その姿を見たとき、
私は初めて、自分の在り方を疑いました。

もしあのまま続けていたら、
子どもたちの自由を奪っていたかもしれない。

そう思ったとき、
自分の間違いを認めざるを得ませんでした。

それでもなお、
自分が与えた影響の大きさを考えると、
今でも心に残るものがあります。


「あるべき自分」と「生きたい自分」

子どもたちが旅立とうとする中で、
今度は私自身に問いが向きました。

自分は、これからどう生きるのか。

「良い父親であること」
「誰かの役に立つこと」

それらを自分の軸としてきたつもりでしたが、
それはもしかすると、

自分の人生と向き合わないための
“逃げ道”だったのではないか
とも思いました。

私は、
自分で作ってきた常識や当たり前に縛られ、

「あるべき自分」を生きていただけではなかったか。

自分と向き合うことなく、
何かのために生きることで、
自分を満たそうとしていただけではなかったか。


本当に問うべきこと

「どうあるべきか」と、
「どう生きたいか」は、まったく別の問いです。

与えられた生き方でもなく、
強いられた生き方でもなく、

自分が望む生き方が、
誰にでも、そして私にもあるはずです。

その問いに、
これから向き合っていきたいと思います。


もし、今
「どう生きるべきか」迷っているのなら、
その問いを一人で抱え続けなくても大丈夫です。

私自身がそうであったように、
対話の中で始めて見えてくるものがあります。

あるべき自分ではなく、
「生きたい自分」に気づくための時間を
ここで用意しています。

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