40代という年齢は、平均寿命からするとちょうど人生の折り返し地点にあたります。それだけでなく、これまで仕事や家庭で必死に頑張ってきた疲れが一気に出やすい頃かもしれません。
人生の折り返し地点の焦燥感|「40代の生き方にモヤモヤ」する原因と現実の壁
「私の人生、本当にこのままで良いのだろうか……」
この仕事をずっと続けていくべきなのかと考え込んでしまったり、夫婦関係や子どもとの関係を見つめ直して「これでいいのかな」と家庭の中で孤独を感じたり。あるいは、「自分が本当にやりたかったことって何だろう?」と自分探しの迷路に入り込んでしまう。
どこか昔思い描いていた人生と違う、もっと違う輝かしい毎日を生きているつもりだったのにと、理想と異なる現実に深く悩む時期なのかもしれません。
仕事ではある程度自分の先行きが見え始め、家庭に目を向けると親の老後や介護の心配も現実味を帯びてくる。同時に、自分自身の体力の低下を実感し始め、「昔のように頑張りきれない自分」が顔を出すこともあるでしょう。
ふと周りを見渡せば、自分より出世している同期や、幸せそうに見える他人と自分を無意識に比べてしまう。そんな、どこか言葉にできないモヤモヤした気持ちになってしまうのは、この年代の誰もが通る道ではないでしょうか。
私自身も、40代半ばになったとき、「これからどのように生きればよいのだろう」と、ふと立ち止まってしまいました。
何かが決定的に足りないような、今の人生にどうしても満足できない思いが芽生えてしまったのです。
「これが私の人生なのだろうか。いや、まだ何かできるはず。でも、一体何をすれば良いのだろう?」
新しい趣味や、資格の取得、新しい生きがい――。
今までの人生に「何を足したなら」この虚しさが満たされるのだろうか。当時の私は、その答えを必死に追い求めていました。自分がそれまで経験してきたことも、学んできたこともたくさんあります。それでもなお、未だ自分には足りない何かがあるように思えて仕方がなかったのです。
気功師の先生のもとで気功を学んだのもそのひとつでした。
目には見えないけれど、確かに存在する気功のエネルギー。気功師のもつ特別な力に、私は憧れました。
過去世瞑想を学んだときは、これまで触れたことのないスピリチュアルな世界を覗いているような新鮮さがありました。
仏教を学んだときには、「これで自分を変えられるのではないか」と思いました。
今までの自分にはない何かを学ぶこと。今までの自分が知らない世界に触れることで私は
この自分を変えられるのではないかと思っていました。
肩書きへの執着|「40代の迷い」人が陥る足し算の罠
今までの自分にはない何かを学ぶこと
今までの自分が知らない世界に触れること
私が何者かになりたいと願ったのは、別の自分を生きたいと思っていたからかもしれません。
生きている充実感や満足感が、どこか足りないように感じていました。
常に「何かが違う」「これでいいのだろうか」という焦燥感がが、心のどこかにありました。
今の自分には何かが足りないから満たされない。だから、この自分に欠けている何かを外側から加えれば、きっと何かが変わるはずだと信じ込んでいました。
自信の持てない生き方から抜け出し、「これが私だ」と胸を張って言える何かを身につけたいと思っていました。
それは肩書きでもよかったのかもしれません。地位や名誉、あるいは人からの評価でも良いのでしょう。
それらが得られれば、満たされるのではないかと心のどこかで思っていたでしょう。
当時の私は、複雑に絡まってしまった思考に、さらに思考を足そうとしていました。お腹がいっぱいなのに、まだ何かを食べようとしているような状態です。
お腹がはちきれそうになれば、身動きが取れなくなるように、思考に思考を詰め込めば詰め込むほど、人は動けなくなってしまいます。当時の私は、まさにその悪循環に陥っていました。
視点の転換|外側の評価ではなく「そのままの自分」に向き合うきっかけ
あるとき私は、そんな私の心の空回りを見透かしてくれる人に出会いました。「そのままのあなたに、できることがある」と言われたとき、当時の私はその言葉を素直に受け取ることができませんでした。
「現状維持で満足しろということ? もっと成長しようとしてはいけないの? 自分の人生を自分で切り開こうと努力してはいけないのだろうか……」
そんな思いが、頭の中を巡りました。自分らしさとは何かしらの自分を作り上げることではないと、気づくまでには、時間が必要でした。
なぜ今のままの自分ではいけないと思い込んでいたのか、本当の自分らしさとは何か。 私は確かに、自分の外側の世界ばかりを見ていました。キラキラと輝いて見える他人が羨ましく、地位や名誉に憧れ、まるで肩書きそのものがその人の価値であるかのように思い込んでいたのです。
「そのままの自分に、今何が出来るのか」という本質的な問いは、外へ外へと向かっていた私の視線を、ようやく「自分の内側」へと向けるきっかけになりました。その後もたくさんのヒントをもらう中で、自分の思考がいかに絡まり合っていたかを思い知らされました。
そして辿り着いたのは、絡まっている思考を、手放すということです。
私は何者かになろうとしていました。
けれど「自分の原点は何なのか」を見ようとはしていませんでした。
気功と瞑想が教えてくれた真理|エゴを手放したときに初めて流れるエネルギー
気功の考え方は、とてもシンプルです。人を「治そう」とするのではありません。
気功師は目に見えない大きなエネルギーの媒体に過ぎないと教えられました。何とかしてあげよう。私が治してやろう。
そう思った瞬間、媒体ではなくなってしまう。思考が強く働くほど、エネルギーの流れは滞ると学びました。
過去世瞑想も同じでした。過去世を見ようと強く考えれば考えるほど、催眠状態から離れてしまうのです。
誘導者に身を委ね、すべてを手放す。思考が静まったとき、はじめて準備が整います。
仏教では、無我と言う言葉があります。すべてが自分を手放すことを教えてくれました。
では、手放していったとき、何もなかったのか。気功であれば手放したことで感じられるつながりがありました。瞑想では静かな中に研ぎ澄まされていく自分を感じました。私は無我になれたかといわれると、まだまだ難しいですとしかいえませんが、思考に頼らなくても私は私であると教えられたように思っています。
自分らしさは作るものではない|学びとは知識を足すことではなく執着を引くこと
自分らしさは、考えて考えて、努力して作り上げるものではありませんでした。
私の中には、すでに私らしさが備わっている。にもかかわらず私は、必死に考え続けることでその自分らしさから遠ざかっていったのです。
加えれば見つかる。学べば成長できる。それは確かだと思います。けれど学ぶことは、何かを足すことだけではありません。
学ぶからこそ、引かれていくものもある。
私はようやく、それもまた学びなのだと気づき始めました。
他人の評価を得るために、いつの間にか自分らしさを見失って、いませんか? もし今のあなたが、かつての私のように「何かを足さなければ」と焦って動けなくなっているなら、一度その絡まった思考を引き算しに、HANEの対話の時間へお越しください。あなたがすでにお持ちの、本来のあなたを一緒に見つけていきましょう。
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