「自分とは何者か」がわからない苦しさ
私は、「自分とは何者なのか」と悩んでいました。
自分のことのはずなのに、自分がわからない。
けれど今振り返ると、それは自己探求ではなかったように思います。
私が見ていたのは「自分」ではなく、
“周囲からどう見られているか”でした。
どのように生きたいかではなく、
どのように生きれば認められるのか。
誰に認められたいのかも曖昧なまま、
「認められる自分」を探し続けていました。
それは、答えのない問いに取り組んでいるようなものでした。
理想の自分を演じ続けた先に
誰が何を望んでいるのかはわかりません。
それでも私は、
「きっとこういうことを望まれているに違いない」
そう決めつけて、
自分の想像を満たすために努力していました。
教員になったとき、私は理想の教員像を持ちました。
尊敬する先輩の姿を重ねながら、
「このようになれたなら認めてもらえる」
そう信じて努力しました。
ある程度は認められたと思います。
しかしその先にあったのは、
・この先も認められ続けるのか
・さらに信頼される存在になれるのか
という終わりのない不安でした。
「自分を生きているのか」という疑問
理想を追い、自分を良く見せ続けることに、次第に疲れていきました。
私は、私を生きているのか。
それとも、無理をして生きているのか。
努力が足りないのか、
それとも理想そのものが違っていたのか。
何が正しいのか、わからなくなっていきました。
理想通りになれない自分。
理想を追うことに疲れてしまう自分。
そのどちらも、
「それではいけない」と感じてしまう。
妥協してはいけない。
妥協は堕落ではないか。
そうした考えがある限り、
何をしていても自分がわからなくなっていきます。
「何者かになりたい」という幻想
自分とは何か。
どれだけ考えても答えは出ませんでした。
それどころか、
自分が何者でもないように感じ、
「何者かにならなければならない」
という焦りだけが残りました。
私は、何者かになれるはずだと思っていました。
何者かになりたいとも思っていました。
けれど、その「何者か」が何なのかはわからない。
ただ、なれたならきっと
自分に納得できるはずだと信じていました。
探していたのは「自分」ではなかった
あるのは、今の自分への不満です。
「こんなはずではなかった」
そう思いながらも、
ではどんなはずだったのかはわからない。
足りないところに目を向けると、
次々と足りないものが見えてきます。
そのたびに自分を責める。
まさに負の連鎖でした。
自分とは何かと問い続けても、答えは出ません。
なぜなら、自分はすでに“ここにある”からです。
私が探していたのは、自分ではありませんでした。
「理想」だったのです。
どのような自分なら満足できるのか。
それを探し続けていたのです。
今を否定し続ける苦しさ
満足の基準もわからないまま、
「今とは違う生き方があるはずだ」と思い込む。
何か違う。どこか違う。
そう思うほど、
今ここにいる自分を否定していきます。
その否定こそが、
生き辛さを強くしていたのかもしれません。

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