背負ってしまう重荷
足すのではなく、引く。
それは「背負ってしまっている重荷をおろしてほしい」
という思いでもあります。
何かを背負い込んでしまっているなら、きっと辛いはずです。
その重荷を増やすのではなく、少しでも軽くする。
そのお手伝いができればと思っています。
親の人生を背負う。
子どもの人生を背負う。
誰かの人生を背負う。
そして時には、自分の人生さえも背負おうとしてしまう。
けれど、本来それは背負うものではないのではないでしょうか。
人生を作り出すことなど、誰にもできないのですから。
私たちにできることはただ一つ。
今、目の前にある出来事に対して、何をするか。
それだけなのだと思います。
子どもたちを勝たせたいという思い
私は、子どもたちを育てながらスポーツに打ち込む姿を見て、
この子たちを何とか勝たせてあげたいと思いました。
負ければ悔しがり、
勝てば喜ぶ。
一勝だけでなく、二勝。
やがて優勝させてあげたい。
そんな思いは、どんどん膨らんでいきました。
勝てば次の大会があります。
さらに勝てば、大きな大会へ。
そして全国大会へ。
もしそこでも勝ち進めたなら、この子たちの人生はどうなるのだろう。
強くなればなるほど、将来の選択肢は増えていく。
私は、そんな未来を思い描くようになっていきました。
背負い込んでしまった人生
今振り返ると、それは
子どもたちの人生を背負い込んでいる状態
だったのだと思います。
実際に力を入れるほど、勝ち上がることができました。
そして私は、どんどんのめり込んでいきました。
やがて、
「私がこの子たちを導いていくのだ」
そんな勘違いをするようになっていきました。
しかし、子どもたちの人生は私のものではありません。
子どもたち自身のものです。
子どもたちは、本当は何を望んでいたのでしょう。
勝てば喜んでいる。
だから、もっと勝てたなら。
優勝できたなら。
どれだけ嬉しいだろう。
そう私は考えていました。
けれど、それはただの欲だったのかもしれません。
私は、子供たちの本当の望みを知ることなく、
「勝てばいい」と思い込んでいきました。
そうした思い込みの中で、
私は子どもたちの声を聞く耳さえ失っていたのです。
繰り返していた自分の過去
勝手に子どもたちの人生を背負い込み、
私はどうすればいいのかと悩み続けました。
様々な方法を試そうとする私。
そのやり方に付き合わされる子どもたち。
その姿は、どこかで見たことのあるものだったのです。
私は、幼い頃
親の期待のために生きていた自分を
繰り返していたのでした。
親の期待に応えなければならない。
親は子どもに期待する。
私の親が、どこまで期待していたのか。
本当は何を望んでいたのか。
それは今でもわかりません。
けれど私は、
学級委員になれば親は喜ぶ。
テストで良い点数を取れば機嫌がいい。
そう感じていました。
そして、
「親が望んでいるであろう子ども」でいようと
私は想像の中で親の期待を作り上げていたのです。
自分を見失う
そういう意味では、私は親の期待を裏切ったとも言えるでしょう。
けれど今度は、
私は子どもたちに対して
勝手に期待を思い描くようになっていました。
そして、その期待に応えようとする。
「今度こそ期待に応えよう」
そんな思いが、私の中にありました。
その結果どうなったか。
私は、私自身を見失いました。
誰の力にもなれていない。
自分は無力だ。
そう思うようになり、
私は何者かになりたいと考えるようになっていきました。
そしていつの間にか、
人のために生きることと
人の役に立つこと
この二つを混同していたのです。
足すのではなく、引く
けれど、本当は
自分の人生を生きているからこそ、
人の役に立てるのだと思います。
自分が自分であること。
それが大切なのだと思います。
私の場合、
親のために。
子どものために。
そうした思いで自分の価値を証明しようとしていました。
だからこそ、
そうした思いを 「引く」 必要がありました。
そして、まず問い直すこと。
自分はどうしたいのか。
足すのではなく、引く。
余計なものを抱え込まず、
自分をシンプルに生きる。
それが、
私がたどり着いた一つの答えでした。
それを形にしたものが、
対話の時間と土に触れる時間です。

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