何かを足すことで、人は変われるのだろうか
極端な言い方をすれば、
昔の私なら何かを足そうとしたでしょう。
自分が経験してきたこと。
必死に学んできたこと。
そのすべての中から、
目の前の人に助言をしようとしたと思います。
もしかすると、
「あなたも学ぶべきだ」と
思ってしまったかもしれません。
私自身もまた、
教えてほしいと願ってきた一人でした。
私はどのように生きればよいのか。
その答えを知りたいと思っていました。
宗教やスピリチュアルの世界に触れたのも、
自分に何かを加えることで成長できると思ったからです。
気功師のもとで気功を学んだのも、その一つでした。
目には見えないけれど、確かに存在する気功のエネルギー。
気功師のもつ特別な力に、私は憧れていました。
過去世瞑想を学んだときは、
スピリチュアルな世界を覗いているようで
胸が高鳴りました。
仏教を学んだときには、
「これで自分を変えられるのではないか」と思いました。
何者かになりたいという思い
私が何者かになりたいと願ったのは、
別の自分を生きたいと思っていたからかもしれません。
生きている充実感や満足感が、
どこか足りないように感じていました。
常に
「何かが違う」
「これでいいのだろうか」
そんな思いが心のどこかにありました。
今の自分には何かが足りない。
だから満たされない。
そう思っていたのです。
この自分に欠けている何かを加えれば、
きっと何かが変わるはずだと。
自信の持てない生き方から抜け出し、
「これが私だ」と言える何かを
身につけたいと思っていました。
肩書きでもよかったのかもしれません。
地位や名誉、あるいは人からの評価。
それらが得られれば、
満たされるのではないかと
どこかで思っていたのです。
思考を足し続けていた
当時の私は、
絡まってしまった思考に
さらに思考を足そうとしていました。
お腹がいっぱいなのに、
まだ何かを食べようとしているような状態です。
お腹がはちきれそうになれば、
身動きが取れなくなるように、
思考に思考を詰め込めば詰め込むほど、
人は動けなくなってしまいます。
きっと私は、
そんな状態だったのでしょう。
「何者にもなる必要はない」という言葉
あるとき、
「何者にもなる必要はない」
という言葉をかけられました。
しかしそのとき、
私はその言葉を素直に受け取ることができませんでした。
求めてはいけないのだろうか。
成長しようとしてはいけないのだろうか。
自分の人生を
自分で切り開こうとしてはいけないのだろうか。
そんな思いが、
頭の中を巡りました。
その言葉の意味に気づくまでには、
長い時間が必要でした。
学びとは、足すことだけではない
私が学んできたことは、
振り返ってみると
とてもシンプルなことを教えてくれていました。
絡まっている思考を、
手放すということです。
私は何者かになろうとしていました。
けれど
「自分の原点は何なのか」を
見ようとはしていませんでした。
気功が教えてくれたこと
気功の考え方は、とてもシンプルです。
人を「治そう」とするのではありません。
気功師は
目に見えない大きなエネルギーの
媒体になるだけだと言われます。
何とかしてあげよう。
何かをしてやろう。
そう思った瞬間、
媒体ではなくなってしまう。
思考が強く働くほど、
エネルギーの流れは滞ると言われています。
手放したときに見えるもの
過去世瞑想も同じでした。
過去世を見ようと
強く考えれば考えるほど、
催眠状態から
離れてしまうのです。
誘導者に身を委ね、
すべてを手放す。
思考が静まったとき、
はじめて準備が整います。
自分らしさは、作るものではなかった
自分らしさも同じでした。
考えて考えて
作り上げるものではありません。
私の中には、
すでに私らしさが備わっている。
にもかかわらず私は
必死に考え続けることで
その自分らしさから
遠ざかっていったのです。
引いていく学び
加えれば見つかる。
学べば成長できる。
それは確かだと思います。
けれど学ぶことは、
何かを足すことだけではありません。
学ぶからこそ、
引かれていくものもある。
私はようやく、
それもまた学びなのだと
気づき始めました。

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