意識こそが私だと思っていた
幼い頃の私は自分の意識こそが私だと思っていました。
物を見る、受け入れる、何かを思うのも、考えるのも、
すべては意識です。それこそが私なのだと思うのです。
それだけに自分の意識へのこだわりが強いのです。
何に対しても先入観を持ち用心します。
自分なりの価値観が世の中の常識であるかのように思えます。
私の意識など独りよがりなもので、
私はこういう人間なのだと決め付けているだけなのですが、
幼い私にはそこまで理解が及びません。
自分中心的な考え方をしていたと思います。
自分という「個」にこだわりが強い分、
生きていること、死ぬことへのこだわりも強いのです。
生への執着と意識へのこだわり
生きているということ、生へのこだわり。
この意識が存在し続けてほしいこだわり。
私というものをなくしたくありません。
死後もこの意識は残り続けると信じていました。
私は再び生まれ変わるのか、漂い続けるだけなのか、
この意識へのこだわりが私を苦しめました。
過去世瞑想で見た別の私
過去世瞑想で見た私は、今を生きる私とは別の人間でした。
この意識とは違う私を体験したとき、
死というものは、それまでとは違ったものとなりました。
過去からの繰り返しを生きている私は、やがて死を迎え、
いつかまた生まれ変わる私は、この私ではありません。
それはむなしさではなく、希望だと感じました。
死の受容とは何か
キューブラーロス氏が唱えた、死の受容は「あきらめ」ではない。
意識的に死を受け入れるのだろうと思いますが、
意識的ではない本質的な私が納得するのだと思います。
高熱の中で見えた自分
39度近い熱が一週間続いたときのことです。
もうろうとしている意識の中で、
このまま死を迎えたなら楽になるのだと思えました。
高熱に見舞われ意識が働かない中で見つけた自分がいます。
何の抵抗をすることもなくすべてを受け入れられる自分。
それこそが自然とともに生きる私の本質なのでしょう。

コメント